日本上陸の第一歩
昔、安禄山という人がいました。
この人物は幼にして狡く、かつ天才といわれ、玄宗の寵を得て、貿易官から節度使に進み、やがて北方で大勢力を張りました。
755年には長安を陥れたので、玄宗は宮中を逃げ出すことにもなり、華北を戦乱の地と化せしめ、彼自身も息子に殺される(757年)にいたっています。
ここで話は沖縄ツアーで人気のある沖縄にうつります。
こんな風に遣唐使が往来した時代には、この南島沖縄に漂着する例が珍しくなかったのです。
遣唐使は630年を皮切りに、9世紀末の廃止になるまで15回におよび、一行は正使、副使以下留学生、留学僧、船員など、およそ500人が、4隻の船に分乗して出かけました。
航路は幾通りもありましたが、その一つは、沖縄列島の近海から南シナ海を横断しました。
多額の費用をかけ、海難と戦って出かける遣唐船が、全員揃って帰国した例は殆どなかったといわれています。
日本は唐の朝貢国でしたし、その義務をまもらないわけにはいかなかったのです。
文化の吸収は結果であって少くとも目的ではありませんでした。